連続文化セミナー『イタリアの祝祭』
第3回 ミラノのデルビー ―イタリアサッカーの醍醐味― のご報告

20160527-101シリーズの第3回は、5月27日(金)にフリージャーナリストで中京大学、大阪芸術大学の非常勤講師の小川光男先生に「ミラノのデルビー」と題してダービーマッチを通して イタリアサッカーの醍醐味を語っていただいた。(参加約25名)

まずイタリアサッカー(カルチョ)の衰退について。20世紀末、欧州(あるいは世界)のサッカーシーンで“我が世の春”を謳歌していたカルチョだが、その後は衰退の一途をたどっている。86年から99年までUAFAランキング1位(90年のみ2位)を保っていたが、2000年に2位、2004年に3位、2011年には4位とランクを下げている。また実力の衰微とともに観客動員数も低迷し、全盛期より28%も観客動員数を減らしている。

そんなカルチョの低迷期でも、今も多くのファンの関心を集めるゲームが存在する。それがデルビーと呼ばれる近しい2クラブの“直接対決”。デルビー(derby)の語源は英国起源で、イングランドやスコットランドのモブ・フットボール(またはマス・フットボール)の名残と見られる。

イタリアにおけるデルビーの種類としては、

①ストラチッタディーナ(都市デルビー)=「内向き、村祭り的な」。
主なクラブとして、ミラノ―ミランvsインテル、ローマ―ローマvsラツィオ、トリノ―ユヴェントスvsトリノ、ジェノヴァ―ジェノアvsサンプドリア、ヴェローナ―エッラスvsキェーヴォ。都市デルビーにはそれぞれの個性があり、ファンがそこに求めるもの、裏に存在する背景など違いがある。

②デルビープロビンチャーレ(近隣デルビー)=「外向き、近隣戦争にも似た」趣が感じられる。

③デルビーレジョナーレ(例:デルビーデッラアペンニーノ、デルビーデルイーゾレ、デルビーディイタリア、デルビーデルソーレなどいずれも「創られたデルビー」という感じ)。

20160527-102さてその中でも最もデルビーらしいデルビーは「デルビー・ディ・ミラノ」である。2つのチームが規模も大きく、実力も伯仲していてバランスが良い。ACミランは1899年に設立された。あだ名は、“cacciavite(ねじ回し)”。ファン層が職人などの労働者階級を中心としていた名残。元首相のベルルスコーニがクラブを買収し、選手を大補強した。

インテルは、1908年にミランの外国人選手排斥を止めるよう訴える44人の反乱分子が設立した。設立の翌年にはセリエAでいきなり優勝した。インテルは、ミランのcostra(肋骨)と言われ、いってみれば旧約聖書・創世記のアダムとイブのような関係である。シンボルは、Il Biscione(大蛇、ヴィスコンティ家の紋と同じ図柄。ファンが富裕層だったころの名残)。

今はどのクラブも財政難で、インテルは2013年にインドネシアの実業家エリック・トヒルが筆頭株主、会長となった。(セミナー後とび込んできたニュースによると中国の家電量販店大手「蘇寧」グループがミランの株式の約7割を取得したと発表した。)ただ財政難にもかかわらず。両チームともスタディアム・サン・シーロとは別に自前のスタディアムを持つ計画もあるらしい。

ミラノのデルビーには、『デルビー・デッラ・マドンニーナ』という別名がある。ドゥオーモの上に光り輝く黄金の聖母像を賭けた絶対に負けられないゲームである。ミランには本田圭祐選手、インテルには長友佑都選手が在籍していることもあり、日本でもデルビー・ディ・ミラノへの注目、関心が高まっていくことだろう。小川先生が須賀敦子さんに「カルチョには関心はないでしょうね。」と話を向けたところ、「私はインテリスタよ。」との答えが返ってきたのには驚いたというエピソードが披露された。(山田記)

講師紹介:■小川 光生(おがわ みつお)
慶応義塾大学文学部西洋史学科卒。イタリア留学中の2000年からサッカー専門誌の記事執筆、翻訳などを手がけ、その後フリージャーナリストとして活動。2010年夏からは、NHKのロケ・コーディネーター兼番記者として、インテルの長友佑都選手、ミランの本田圭祐選手を追いかけ続けた。2016年4月から、中京大学、大阪芸術大学の講師として教壇に立つ。著書に『サッカーとイタリア人』(光文社新書)、『プレーのどこを視るか』(青山出版)など。