ローマの南側の城壁の外に非カトリック教徒の墓地がある。ローマが法王領だった時代にカトリック教徒以外は城壁内に埋葬できなかった名残である。
この墓地を訪れる人々のお目当ては英国ロマン派詩人ジョン・キーツ(1795~1821年)とパーシー・シェリー(1792~1822年)の墓である。キーツは貧しく結核の家系を持つ家に生まれ、ローマに転地療養に来たのだが、ローマの名所スペイン階段の下の右側の家(現在はキーツおよびシェリー博物館になっている)で25歳の若さで結核のため死んだ。
一方、裕福な貴族の家庭に生まれたシェリーは、困難を乗り越えて結婚した妻メアリーを伴いイタリア各地を回った末、ラ・スペーツィア湾に面したレリチェに居を構えたが、1822年7月8日、新造したヨットでリボルノ港から帰る途中に突然の嵐に巻き込まれ、29歳の若さで溺死した。遺体は海岸で荼毘(だび)に付され、遺骨はローマの非カトリック教徒墓地に葬られた。
なお、メアリー夫人はイタリアに来る前の1817年、スイスのレマン湖の畔(ほとり)にバイロン卿が借りていた別荘に夫と滞在中、後世の怪奇映画や怪奇小説の元となる「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」を書き上げていた。
坂本鉄男
(2016年1月31日『産経新聞』外信コラム「イタリア便り」より、許可を得て転載)