ローマ皇帝たちは、モニュメント、彫像、コイン、碑文などの記録物を通じてどのようなイメージを伝えようとしたのでしょうか。また、皇帝のイメージはどのように利用されたのでしょうか。全5回の連続セミナーでは「イメージ」を手がかりとして、歴史や美術など様々な立場から古代ローマの皇帝たちの姿を紹介してきました。
7月13日18:30~20:00、『古代ローマの皇帝たちとそのイメージ』シリーズ第5回が開講され、25名の方が参加しました。いよいよシリーズ最終回の第5回では、これまでが帝政前期の皇帝を対象としてきたのに対し、帝政後期のコンスタンティヌス帝を中心に取り上げて、田中創先生にお話をいただきました。
4世紀に活躍したコンスタンティヌス帝(位306-337年)は、キリスト教を公認したほか、新首都コンスタンティノポリスを建設するなど、それまでのローマ帝国の政策とは隔たった、革新的な試みを行った皇帝として記憶されています。
しかし、コンスタンティヌス帝が帝国の覇権を握り、後世に記憶されるようになるまでにはさまざまな紆余曲折がありました。そこで本セミナーでは、コンスタンティヌス帝が生きた時代、そして彼が死んだ後の時代という二つの段階を扱いながら、皇帝のイメージがどのように利用されていったのかをお話いただきました。
コンスタンティヌス帝は、帝国の政治的混乱に終止符を打ったディオクレティアヌス帝(位284-305年)が残した政治的遺産に直面せざるを得ませんでした。とりわけ、ディオクレティアヌスが導入した四帝統治体制は、帝国の地理的拡大などの現実的問題に対応するために不可欠な措置ではありましたが、同時に後継者問題をはじめとした新たな問題をもたらすことになりました。
コンスタンティヌス帝は312年ミルウィウス橋の戦いにおいて、「暴君」マクセンティウスを破りますが、コンスタンティヌスはブリタニアから軍を発し、マクセンティウスはローマにいました。ローマの凱旋門の碑文によれば、記念門は「首都の解放者」としてコンスタンティヌスに捧げられました。この時すでにイタリアの都市としてのローマと世界帝国としてのローマの間に視点のずれが生じています。このあと324年までに帝国全土を統一しますが、330年にはコンスタンティノポリスを建設し、遷都します。
コンスタンティヌスが残した図像やモニュメントにはそのような政治状況と関連させられるような特徴がいくつも認められることを指摘されました。興味深かったのは四帝時代のコインの肖像が4人とも無精ひげのそっくりさんであるのに対しコンスタンティヌス帝はひげなしでいかにも正統な皇帝といったイメージが作られていることです。
ミルウィウス橋の戦いの前に十字の啓示を受けたことでキリスト教に改宗したという逸話があり、その後「ミラノ勅令」でキリスト教を公認したとされています。コンスタンティヌスのキリスト教とはどのようなものであったのでしょうか。霊廟や洗礼を巡るいくつかの記録を見る限り、後の時代にさまざまな脚色を加えられて記憶されることになったものとはかなり異なったイメージが見られます。例えばコンスタンティノポリスにおける皇帝像はポイティンガー図(4世紀ころに作成された世界地図)に見られるように記念柱の上には太陽神とともにあり、伝エウセビオスの『コンスタンティヌスの生涯』には、生前に準備された霊廟では12使徒の安置台を聖なる列柱のように立てその間に自分の棺を置くという計画になっています。また洗礼についてもコンスタンティヌスは人生の最期にニコメディアの司教エウセビウスによって洗礼を受けたとヒエロニュムスの『年代記』にあります。しかし後代になると「カルケドン公会議」において模範としてのコンスタンティヌス像が作られ、また、「コンスタンティヌスの定め」においてはローマ皇帝シルウェステルによって洗礼を受けたとされるなど、変容していきます。その変容する皇帝像を通じて、歴史が作られていく一局面を覗いてみることができました。(山田記)
講師紹介:■田中 創(たなか はじめ)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。文学博士。日本学術振興会特別研究員を経て、現在は東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻准教授。専門は古代ローマ史、初期ビザンツ史。ローマ帝国の行政制度や地中海世界の都市文化を研究している。訳書:『リバニオス 書簡集』(京都大学学術出版会、2013年)