日伊国交150周年記念事業として、[主催]上智大学、在日イタリア大使館 [協力]イタリア文化会館、イタリア国立東方学研究所、公益財団法人日伊協会により、2016年10月14日14:00~18:30、上智大学四谷キャンパス2号館17階国際会議場において、標記シンポジウムが開催された。参加者約100名。
開会の辞を述べられた上智学院理事長の高祖敏明教授から、国交樹立の前に民間ベースの前史として、430年前の天正少年使節よりさらに30年も前にローマ教皇に謁見した鹿児島のベルナルドの紹介があった。ベルナルドは日本に帰国することなくコインブラで病死した。
1866年7月4日、アルミニオン船長率いる2,500トンのマジェンタ号は200人の乗組員を乗せ、5か月の航海の後、下田にたどり着いた。両国の政治外交情勢に翻弄されながらも、やっと8月25日条約が調印された。
何年も前から日伊間では接触あったが、統一したばかりのイタリアとしては、特に蚕の問題から、何とかフランスに助けられながら、こぎつけたかった条約調印であった。
以後150年の間、政治体制や経済活動、両世界大戦における立場、人口の高齢化などいろいろな点において両国は比較的似たところを持ち、岩倉使節団の派遣とイタリアからの東京芸大への芸術家の派遣、ジャポニスム、プッチーニのマダムバタフライ、フォス・コマライーニなどの両国の文化的関係は極めて密であった事例を挙げ説明された。
当時統一を果たしたイタリア王国にはがまだヴェネツィアとローマが入っていない。
イタリア王国政府が農業社会から脱皮し、新生王国の存在を世界に知らしめようと世界に派遣したのが、マジェンタ号であった。(マジェンタ号の名前は1857年にイタリアがオーストリアに勝利した地名からとられた。)
土肥秀行講師(立命館大学准教授)は「『以太利は欧州の日本也』-明治後期イタリアブームにおける二重写し」と題して、明治後期から現代にいたるまで、日伊両国はよく似たところと正反対のところを持つが故に、一方で優越感を持ち他方で尊敬するという二重写しの関係が続いている。
これは両極端ではなくコインの両面のようなものである。30年前の「ばか騒動」騒ぎや明治のイタリア史ブームなどの多くの社会的事象の例を挙げて説明された。
巌谷睦月講師(東京芸術大学教育研究助手)は、「芸術における日伊交流の発展―ルーチョ・フォンターナと滝口修造の時代を中心に―」と題して20世紀における前衛芸術の巨匠の二人の濃密な交流を紹介し、その前提として19世紀におけるイタリアの力を借りた日本における美術史教育の整備があったことを紹介された。
フルヴィオ・コンティ講師(フィレンツェ大学教授)は、「1873年の岩倉使節団とイタリアの発見」と題して、当初10か月の予定で出かけたが実際には2年もかけ、また100人以上もの政府の枢要な人物を網羅した岩倉使節団について述べられた。
使節団一行は、米国や欧州諸国を訪問して政治、経済、司法、金融、技術、交通、軍事など万般にわたりその発達した姿を仔細に観察し、学習した。
米国には8か月、英国には4か月、そしてイタリアには1973年の5月から6月にかけて滞在した。しかしバチカンを見学はしているが、教皇には謁見していない。
最後に閉会の辞を述べられた日伊協会島田精一会長は、今日のシンポジウムが日伊両国の歴史を振り返りつつ将来に向けて新しい展望を開くものとなったことを大使初め講師の方々、高祖敏明上智学院理事長はじめ上智大学の方々に感謝の意を表された。
また本シンポジウムの企画に多大のお骨折りをいただいた、イタリア大使館のモルテーニ文化担当参事官と日伊協会顧問の藤澤房俊先生に感謝の意を表された。
自ら理事長を務めておられる津田塾大学の創始者津田梅子が、6歳11か月で岩倉使節団に含まれる留学生の1員として参加したことをエピソードとして紹介された。
(以上・山田記)