第6回イタリア語による日伊特別セミナーご報告

 こんにちは、日伊協会の押場です。

去る2月28日(土)、日伊特別セミナー「プーリャ:《イタリアのかかと》への旅」(Puglia: Un viaggio lungo il “Tacco d’Italia”)が開かれました。会場はほぼ満席、皆さんの熱心な眼差しを感じながら楽しいひと時を過ごすことができました。おかげさまでこのセミナーも今回で第6回となりました。貴重な場を続けさせていただいたことに感謝したいと思います。そもそも1時間以上も生のイタリア語が聞ける機会はめったにありません。スクリーンに映し出される様々なスライドは、見ているだけでも興味深く、イヤホンを耳につければ日本語の同時通訳だって聞くことができる。なにしろ、このセミナーは同時通訳養成講座のための訓練の場でもあるからです。

しかし、なによりも貴重だと思うのは、講師の先生が母国語であるイタリア語に込めておられる情熱なのではないでしょうか。まずは原稿を書き、同時通訳講座担当のアマデイ先生とともに推敲を重ね、通訳を担当される通訳の皆さんと綿密に打ち合わせをして、それから演壇に立っていただくのです。こうした準備を労を惜しまず重ねていただくことで、内容のあるセミナーが開催できたというわけなのです。


さて、今回のセミナーをご担当くださったのは、バーリのご出身で、バーリ大学をご卒業されたアントニア・アバテマッテーオ先生。ご自身の故郷でもあるプーリア州、イタリア半島は女性用のブーツの形に見立てると「かかと」の部分、そんな「イタリアのかかと」(Tacco d’Italia)への旅に出てみたくなるようなお話でありました。

セミナーはプーリアの映像での始まりました。「光と潮風を感じてくださいという」アントニアさんの言葉が、満席の会場を一気に南イタリアへと運んでくれます。

スライドに映し出される海と空のブルー、麦とオリーブオイルとゴールド、古い家並みと教会の壁はホワイト、そして深い味わいのワインの色であり伝統的なダンス「タランタ」のコスチュームの色でもある赤。この時点ですっかりプーリャ州に惹きつけられてしまいました。


旅の出発はイタリアで最も西に位置するオトラント。ちょうどイタリア半島のヒールの突端にあたる都市。アドリア海とイオニア海のふたつの美しい海にする都市なのですが、オトラント大聖堂の話を聞けば、そこはまさに記憶の場所。かつてエルサレムの解放のために十字軍が旅立った場所であるとともに、15世紀末にはオスマン帝国軍によって陥落し、キリスト教からの改宗を拒否した多くの市民が虐殺された悲劇の歴史を伝えてくれます。オトラント近くの美しい入江は「トルコ人の入江」(Baia dei Turchi)と呼ばれてるのだそうです。思わず、現代のヨーロッパ世界とイスラム世界の関係を考えさせられてしまいます。

次の目的地はレッチェ。この地にやってきたローマが「狼 Lupiae」という名前をつけたことに由来するそうです。その足跡は今に残るローマ風円形劇場によっても偲ばれます。レッチェが繁栄したのは16世紀から18世紀、このころレッチェ石という柔らかい素材を利用し、巧みな細工をほどこした建物がいくつも作られたそうです。その美しい街並みからレッチェは「バロック風フィレンツェ」と呼ばれています。サンタ・クローチェ大聖堂や市庁舎のスライドで、その美しいバロック様式を紹介していただきましたが、これは足を運んでみたくなりますよね。

魅力的なのは街並みだけではありません。レッチェは地方色豊かな料理も有名。その伝統的な素材は、比較的安価な大麦の全粒粉などを使う「質素な」ものですが、それが今逆に自然な食材を使った料理として評価されています。 独特の手延べパスタ (Sagne‘ncannulate )や肉巻きのロースト(Turcineddi)、それから伝統的なケーキのスライドは、見ているだけでお腹がすいてきます。

オトラントやレッテェが位置するのはサレント地方。この地方には東方の文化の影響を受けてきたわけですが、その中に「グリーコ」(griko)と呼ばれる方言があるそうです。グリーコとはギリシャ語という意味です。実際、イタリアの南部は、かつてマグナ・グラエキア(大ギリシャ)の植民地でした。そしてサレント地方には、当時の言葉と文化が伝えられている「サレントのギリシャ」と呼ばれる地位があります。けれども18世紀にイタリアが統一されて以降、さすがにグリーコ方言が話されることは少なくなり、ほとんど死語になりそうなってきました。そこで現在では、このグリーコの保存活動が行われ、この方言を学校でも教えるようになっているというのは、実に興味深い話ではありませんか。

グリーコだけではなく、プーリャ州には少しずつ異なる様々な方言が点在し、大別すると2つのグループに分かれるそうです。北部はナポリ方言から派生した方言群からなり、南部のサレント地方にはシチリア方言の派生方言が見られるというのです。こうした事情もあり、南部のレッチェの人々と北部のバーリの人々は、強いライバル関係にあるというのです。なるほどこれは、日本で言えば関西に似ていますよね。東京から見えれば同じに見えるかもしれませんが、あちらでは少し場所が変わっただけで方言も少しずつ変わってくる。方言の少し違う相手とは微妙なライバル関係が生まれてゆく。プーリャでもそれは同じということなのでしょう。


そんな方言の話をはさんで、アントニアさんの旅はバーリへと進んで行きます。バーリはブーリャ州の州都ですね。有名なのはバーリ風のフォカッチャ。バーリの人々には欠かせないおやつなのだそうです。そのトマトとオリーブがたっぷりと乗せられた写真は一見ピザのようですが、よく見ると生地は少し厚め。アントニアさんによると、食べる時にはトマトがこぼれ落ちないように注意しなければならないそうですが、そんな話を聞きながら、きっとみなさんも、このフォカッチャをがぶりと食べたい衝動にかられたことだろうと思います。

続いてバーリの旧市街の街並みのスライドです。どこかナポリの下町を思い出させる風景ですが、光と壁の色が違います。バーリのほうがはるかに明るように見えます。そこでは路地にテーブルを出した女性たちが、独特のパスタ「オレキエッテ」を作っています。耳(オレッキェ)の形をしていることから「オレッキエッテ(小さな耳)」呼ばれるこのパスタは、薄い形に整えられたものほど高級なのだそうです。そんなパスタの一品が「チーメ・ディ・ラーパのオレキエッテ」。 チーメ・ディ・ラーパは日本の菜の花に似た野菜ですね。 このパスタがスクリーンに映し出されると、会場からは「おおっ」と声があがりました。

バーリで有名なのは聖ニコラ大聖堂ですが、数々の奇跡を起こしたことで知られる聖ニコラはバーリの守護聖人でもあります。けれども聖人が生まれたのは小アジアです。

今のトルコがかつてはローマ帝国の属州でした。やがて東ローマ帝国領となり、11世紀後半にはセルジューク朝に征服されることになります。このとき、バーリから来ていた船乗りたちが聖ニコラの遺体を持ち去り、故郷の教会に安置したというのです。それが聖ニコラ教会となったというのです。このバーリの教会にも、トルコのイスラム世界との関わりの歴史が刻まれているというわけですね。

バーリ近郊には有名なアルベルベッロがあります。トゥルッリ(trulli)と呼ばれる白壁に石を積み上げた屋根をもつ家屋郡が知られていますが、 今では日本からも多くの観光客が訪れるようになっていますね。独特の景観を作っているこの石屋根ですが、実はその背後に興味深い歴史が隠されています。かつてこの地を開拓した領主は、当時の支配者だったナポリ王国から税金を取られたくはありませんでした。そこで、ナポリから監察官が来ることがわかると、家々を取り壊させたそうです。モルタルを使わずに石を積み上げた屋根は、支えを外せば簡単に崩せるものであり、監察官が立ち去ると、人々はまた石を積み上げて家を作り直します。そうやって、壊しては作ってきたのが、アルベルベッロノのトゥルッリなのだそうです。

このアルベルベッロから数キロ離れたところにジョイア・デル・コッレがあります。 今回のセミナーを担当いただいいたアントニアさんは、 この町にあるノルマン・シュヴァーベン城について卒論をお書きになったということですが、お話を伺うととても興味深い場所のようです。そのノルマン・シュヴァーベン(イタリア語では Normanno Svevo )という名前は、11世紀から12世紀にかけて南イタリアを支配していたノルマン人(ヴィスコンティの『山猫』でアラン・ドロンが演じたタンクレーディは、そんなノルマン人の名前ですね)を想起させるものですし、シュヴァーベンといえば神聖ローマ皇帝を輩出したホーエンシュタウフェン家を出したドイツ南西部の地名です。実際、13世紀にイタリアの統一を目指した神聖ローマ皇帝フェデリコ2世は、このジョイア・デル・コッレの城を鷹狩りのための居城としたということです。

アントニアさんは、そんなノルマン・シュヴァーベン城にまつわる逸話を聞かせてくれました。皇帝フェデリコ2世の時代、その息子マンフレーデイが父の妾であったビアンカ・ランチャと関係を結び、子供を身ごもらせてしまいます。怒ったフェデリコ2世はビアンカをこの城の塔に幽閉すると、そこで人知れず出産させようとするのです。しかしビアンカは、生まれた赤子とともに献上させるようにと、自らの胸を切り落とし命を絶ってしまいます。以来この城には毎晩ビアンカの嘆き声が聞こえるようになったというのです。

そんな怖い話もふくめて、この地の長い歴史を感じさせてくれるノルマン・シュヴァーベン城を訪れたときには、この地の名産品も味わいたいもの。アントニアさんはジョイエ・デル・コッロの特産ワイン「ヴィーノ・プリミティーヴォ」と、モッツァレラを始めとするいくつかの美味しそうなチーズもご紹介くださいました。




プーリャの旅をさらに北へと続けると、アンドリアで謎の建造物と出会うことができます。今回ご紹介いただいたのはカステル・デル・モンテ。その名の通り小高い丘の上に立つ「山の城」ですが、驚くのはその形。城全体が八角形の平面で構成され、中央には八角形の中庭があり、それぞれの角には八角形の小塔があるという独特の形状をした建築物なのです。

この城を建てたのは、中世で最も進歩的な君主と呼ばれる神聖ローマ皇帝フェデリコ2世。知的好奇心が旺盛だったこの皇帝は、アラビア数字を導入したレオナルド・フィナボッチのような数学者を庇護したことでも知られていますが、だからでしょうか、カステル・デル・モンテの構造はまさに数学的なものですよね。

それにしても、どうしてそんな構造をしているのか。実は今でもよくわからないそうなのです。アントニアさんは、いくつかの仮説をご紹介くださいました。

まずは城の形が「聖杯」(Sacro Graal)を表しているという仮説。聖杯とは中世ヨーロッパで生まれた騎士道物語のなかに登場するもので、アーサー王伝説などが有名ですが、映画『インディー・ジョーンズ』なども、失われた聖杯を求めるストーリーでした。次に何かのイニシエーションを行う施設ではなかったかという仮説。この城の門を入って中庭に抜けるためには、城の中の迷路のような通路を通り抜けなければならないのです。ですから、知力のある者だけが中庭にたどり着くことができるというわけです。知性を愛したフェデリコ2世という皇帝なら、そんなことを考えたのかもしれません。それから城それ自体が皇帝の冠の形を模しているという仮説。たしかに、この城は小高い山の上にあるので、遠くにまでフェデリコ2世の広大な権力を見せつけることができたのでしょう。さらには天文観察のための建物だという仮説。中庭から八角形に切り取られた空を見上げて、星々を動きを観察したのだというのですが、なるほど中世最大の知のパトロンであった皇帝らしい動機です。似たような動機としては、巨大な数学的装置であったというものもあります。また、城の中からフェデリコ2世の狩りの様子を描いたレリーフが見つかったことから、鷹狩りのための拠点だったという説もあります。

いずれにせよ、この城には堀も城壁もなく、王座もなく寝室も台所もありません。あるのは小さな休息室と水場だけですから、とても長期滞在できるようなものではなかったようです。そんな謎のカステル・デル・モンテは、現在ユネスコの世界遺産に登録され、世界的な名城のひとつとして数えられるもの。中世における最大の近代人と称されたフェデリコ2世の記憶をよびさましながら、ヨーロッパ文化とアラビア文化の交差する場所を指し示してくれているのではないでしょうか。

プーリャ州を南から北へと旅してきたアントニアさんのお話は、アドリア海に突き出したヴィエステの町で終わりを迎えます。その美しい街の景色のスライドとともに「みなさん、ぜひ一度訪れてみてください」という彼女の言葉に、会場の誰もが心の中でうなずいていたのではないでしょうか。